「こんなときだから」と普段の世間話などが封じ込められるのは危険です。逼迫した情況でも、人は普段と同じような世俗的なことを考えてしまうものです。そういう世俗的な部分を持ち合わせていることを認め合うほうが、健全です。
http://diamond.jp/articles/-/12375 <http://diamond.jp/articles/-/12375>
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■被災地では、お葬式をやりたくてもできない
最近、亡くなった場所から直接火葬場に行く「直葬」が脚光を浴びている。
お葬式をできるのにしないということは、ある種の贅沢なのかもしれない。
被災地で起こっているのは「葬式は、要らない」ではなく、「葬式は、できない」という状況です。
■お葬式の世俗的な側面が遺族の悲しみを和らげる
お葬式には、死者を供養すること以外に、グリーフケア(愛する人を亡くし悲嘆(グリーフ)にくれている人が、その事実を受け入れるまでのプロセスをサポートすること)の側面がある。
その最も大きな要因は、お葬式の世俗的な面
具体的に言うと、むしろ滑稽にも思える世界
「故人の戒名の値段をいくらにするか」
「会葬者に出す弁当は松竹梅どのランクにするか」
「香典が少ない人をケチだと感じてしまう」
家族が亡くなって悲しみにくれているというのに、白髪が恥ずかしいからといって染めようとしたり、喪服が似合うかどうかを気にしたり、ネックレスに付いている真珠の大きさに見栄を張る。
こころに「どうでもいい」世俗性が入り込むことで、悲しみが少しだけトーンダウンすると思います。さらに言えば、弁当は1000円ではなく750円のものにしようと考えるこころが少しでも残っていることが、のちのちの悲しみを癒すクッションとしての役割を果たすのです。
今回の震災は、現実離れした想定外の悲劇が起きています。
これまでの日常が入り込む余地もないほどの甚大な被害が出ています。立ち直れないほどの悲しみを抱えて、被災者の方々は日々を懸命に生きています。
私は、だからこそ世俗性が混じり込んできたほうがいい、悲しみだけに浸ってしまう状況を作らないほうがいいと思います。
「いかがいたしましょうか? 戒名はおいくらのものにしましょうか」
「お料理は、竹よりも松の方が豪華に見えると思いますが」
葬儀屋さんとのそんなやり取りに「いやだね、こんなときまで金の話かい」などと悪態をつくことで、こころのバランスをかろうじて維持しておくことができるのではないかと考えています。
■被災地で「世俗」を見聞きすると、人間のたくましさを感じる
名取市で二人の年配の女性の感動的な再会シーンに続きやがて
「○○さんのところは、あのとき、ヨメだけさっさと逃げたんだから!」
「あそこのヨメは、自分の宝石だけはちゃっかり持って出たらしいのよ!」
こんな非常事態でも、嫁と姑の関係から普段の近所の立ち話のような会話をしている二人を見て、思わず笑いそうになりました。しかし、一方ではとても健全だと感じたのです。
こんな非現実的な事態が起こっているなかでも、二人の女性の意識の中では、嫁と姑の関係が厳然と存在していて、日常に混じり込んでいます。震災があっても、姑は嫁の態度に厳しい。ちょっと滑稽にみえるこういう世俗的な日常は、実はこころの健全さでもあるのです。
「避難所で、被災者同士が物を奪い合った」
「炊き出しの列に、一人で何回も並んでいる」
「あの人は、若い女性にばかり声をかける」
当事者は腹立たしいかもしれませんが、そういう話を聞くと少しホッとします。
非常事態だからと言って、このような世俗的な態度を封印してしまう空気のほうが、逆に危険を感じます。現実を受け入れ、こころが立ち直って日常に戻るまでのプロセスが、うまく機能しないのではないかと思ってしまうからです。
これは、支援する側にも言えることです。
私が知る限り、医療支援などで被災地に入った人たちは、緊張感、高揚感などによって100パーセント気が抜けない状態が続いています。
いわゆる「あそび」がないため、逆に「燃え尽きて」しまわないか心配です。
私自身、たった数日しか被災地に入っていないのに、帰ってきてから目にするのんびりとした日常に対して、一瞬「これは嘘の世界だ」と感じてしまいました。すぐに考えを改めることができましたが、なかなか元の世界に戻れないという人がかなりの数にのぼっているのも事実なのです。
■どんなときでも、世俗を不謹慎だと思わなくていい
どんなに大きな災害に遭っても、人はいつか日常に戻らなければなりません。
そのとき、悲しみや苦しみの極限から一気に日常に戻ることはできないと思います。非常事態のなかにも世俗や日常がパッチワークのよ
うに存在しているほうが、日常にソフトランディングしやすいのではないでしょうか。
震災以降、巷には不謹慎という言葉が溢れました。
この言葉が出てくるということは、非常事態では世俗的なことを排除しなければならないというメカニズムが働いているような気がしてなりません。
誰もが、心の中では人に言えないことを思い浮かべながら生きているものです。もしも心の声をすべて文字にしたら、誰もが不謹慎極まりない人間とされてしまうでしょう。
お葬式で、正座していて、足がしびれて転んでしまった参列者。
怒られている部下が叱っている上司の鼻毛に目が行ってしまう。
妻の妊娠に立ち会いながらも、見たいテレビ番組が気になる。
こういった世俗的な場面が顔を出す瞬間に笑える余裕が大切です。
こんな時期だからこそ、世俗的なことを不謹慎と思わなくてもいいと思います。世俗的な日常を封印しなくても、打ち消さなくてもいいのです。
むしろ、こんなときでも自分のこころには世俗が残っていると前向きに考えることができます。世俗が残っていれば、いまがどんなに辛くても、震災前の日常にスムースに戻れる可能性も十分あると思います。
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