2011/11/14

カエル2011 教えることについて またまた、長文になってしまいました m(__)m

柴崎です
カエルプロジェクトでの感想:昨日の続きです。
ちょっと言い過ぎかもしれませんが・・。
カエルプロジェクトセミナーに同道して、教育に携わる人々に関しても考えさせられることがありました。
現場の教員の方々、知り合いの多くのボランティア、非常勤の方々は毎日のように材料作りに頑張っておられ、その作品の素晴らしさに驚かされることばかりですし、今回見学させて頂いた授業でも、先生がとてもよく工夫したやり方で教えていると思いました。もしかしたら教育現場では当たり前のことだった
のかも知れませんが。
しかし、下記のような状況もあります。
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いろいろな場所で聞いた「成功事例」に共通することのひとつに、来日して入った学校で「良い友人」「教師」に会えた、ことがあると思います。今回、同時通訳をしてくれたM君は「良い友人に恵まれた」と話していました、それで彼の今があるのでしょう。そんな幸せな子どもたちばかりなら私たちの心配は半減するのですが・・。
日本語を教えてくれるボランティアも彼らに接する機会が多く重要な役割を負っていると言えます。その方々は、やる気もあり、やさしく、使命感を持った方々と言えます。しかし、(残念ながら、「しかし」なのです)ボランティアの方が教えているところを見させて頂くと、性格的に向き不向きがあることが分かりますし、向いていても技が無いことがあります。例えば、理解させるという本質を分かっていないのか、即座に答えを出す方法を示す場合が多いのです。例えば算数では「(割り算で)そこは2がたつの?えっ?!3??違うでしょう・・・そう、4」だとか「(分数で)下を4で割って、上に3を掛ければいいの!」などという説明というか指示というか・・。そんなやり取りを多く目にします。あるところでは「理屈はいいから、覚えちゃいなさい」という教え方?をしていた方もおられました。
私は、教育の専門家ではありませんが、「出来る」のではなく「わかる」ことが重要なはずで、教える側は足場作り(スキャフォールディング)がその役目のだと思いますが、学生を含めボランティアの方々で一生懸命にやってくれるのは良いものの、失礼ながら「(仮に)自分の子どもをこの人たちに預けると考えると・・・NG」という思いになることもしばしばでした。
もちろんそんな人たちだけではありません。愛知県のあるボランティアグループではで毎日のように反省会を開いて話し合って、引継ぎをしていますし、東京には3ヶ月ごとに指導方法の見直しをしている団体もあります。
ボランティアであってもコミットメント(社会に対する約束)をしているわけですから、技を磨く必要がありその人たちは真剣にやっています。時間があるから、暇だからやっているのではないはずです。
でもその報酬の低さと言ったら・・。
そこで思うのは下記の二点
1)無給に近いボランティアに頼らざるを得ない状況の解消
・医療行為は素人は許されていません(戦場なら別でしょうが)免許を持っている医師に許されている行為です。それは命に関わるからでしょう。
教育にも教員免許があります。これは教育も専門性が求められているという証だと思います。いい加減な教育はそれを受けた子どもにとって一生を棒に振ってしまうという意味からすると命を扱う医療行為に似ているといっても良いのではないでしょうか。つまりこの分野も本来なら素人に任せてはいけないということだと思います。
・その意味では、無償に近いボランティアに任せている今の状態は直ぐにでも改善する必要があると思います。(もしかすると今の状況を「戦場の前線基地」だと思っているのでしょうか・・皮肉ですが。)ボランティアや非常勤の方々にも研修の機会を与えそれなりのレベルにして、何かしらの資格を与え、十分な報酬を支払う必要があると思います。国なり、地方自治体なり、何とかしなければドロップアウトの子供たちが増える恐れがあります。
2)ボランティア自身による研鑽
・年少者にはそれなりの教え方があるはずで、その意味では小学校で教鞭をとって、その年齢相当の学習能力を分かっている方々にある程度の教授法を習うことが必要だと思います。(文部科学省も教員のプロボノ(*)を奨励すべきだと思います。)「無手勝流」は教育現場には通じません。プロの先生方が努力してもなかなか上手く行かないことも多いのに訓練なしでは戦えないのではないかと思います、間違っているでしょうか。
*"プロボノ"とは、社会人が、仕事を通じて培った知識やスキル、経験やノウハウなどを活かして社会貢献することを意味する。
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こんなことをツアーの間、勝手に考えていました。

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